勇気を出して……


 
「もう、兄さんなんか2度と帰ってこなくてもいいです!!」
『すももっ……!?』
 私は乱暴に電話を切って、枕に顔を埋めながらベッドにうつぶせで寝転がった。
「兄さんのバカ……」
 そう……悪いのは全部兄さんで、私は悪くない。
 だって、私はこんなにも我慢してたのに約束を守ってくれない兄さんが悪いんだ……


 春に兄さんが別の学校に転校していって4か月。
 先週から夏休みに入って、私は兄さんが家に帰ってくる日を楽しみに待っていました。
 兄さんが小日向家に来てから、兄さんに会わない日はそれこそ両手で数えられるくらいしかなくて、兄さんがいない日常なんて考えられなかった。
 兄さんが家を出て行ってからの日常は、なにか大切なものが抜け落ちていると言うか、いつもより色褪せた日常にしか感じられなくて、夜になると毎日のように兄さんに電話したりメールを送ったりして……
 でも、そうそう毎日電話をするのも兄さんに悪いし、最近は少し我慢するようにしていました。
 夏休みに入ったら早めに帰ってくる。
 兄さんがそう約束してくれたから、私はカレンダーの兄さんが返ってくる日に大きく印を付けてまで楽しみにして待ってたのに……
 さっきかかってきた兄さんからの電話は、私のそれを否定するものだった。
『ほんとにゴメン! どうしても片付けないといけない課題があって……』
「……課題があるなら仕方ないですよ」
 答える私の声は酷く暗いものだった。
 頭では分かってる。兄さんが行った学校は日本有数の魔法学院で、勉強も大変だってことも。
 でも、心ではもっと私の事をかまって欲しい。もっと私の事に時間を割いて欲しい。
 そんな事ばかり思っていた。
『来週には帰れると思うから』
「来週……ですね……」
 兄さんは、私の事より勉強の方が大事なのかな……私より魔法の方が大切なのかな……
 考えれば考えるほど悪い方へと思考が向かっていく。
 それでも、これくらなら我慢できた。我慢しなくちゃいけなかった。
 私は兄さんの妹だから……誰よりも兄さんの事を応援しているから……
『「雄真、ちょっと聞きたい事があるんだけど」……あぁ、ちょっと待ってろ』
 遠くから、でもその声は私の耳にはっきり届いてきた。
 その声を聞いた瞬間私の中で何かが切れた音がした。
『まぁそう言うわけだから――』
「兄さんは……」
『え?』
「兄さんは私の事を何だと思ってるんですか!?」
『す、すもも……?』
 一度溢れ出した言葉は留まってはくれなくて、私は畳み掛けるように兄さんに怒鳴っていた。
「兄さんは私より魔法の方が大事なんですね! 兄さんは私よりも新しい女の子のお友達の方が大切なんですね! そうですよね、小さいだけで可愛くもない妹なんて兄さんには必要ないですよね!」
『すもも落ち着けって……来週には帰ってくるって――』
「……いいです」
『すもも?』
「もう、兄さんなんか2度と帰ってこなくてもいいです!」
『すももっ……!?』
 別に兄さんを困らせたいわけじゃない。
 これで、少しでも私の事を考えてくれたらそれで……




 ツーツーツー……
 耳にあてた携帯からは無機質な電子音が流れてくるだけだった。
 正直、何が起きたのか理解できていない。
「雄真? どうしたの?」
「ん〜……いや、何でもない」
 何でもないと片付けられるような状態ではないと思うが、麻衣に話してもしょうがないしな……
  「何でもないわけないよね? 雄真すごい慌ててたし、電話越しに妹さんの声も聞こえてきたし」
 どうやらばれてるらしい。
 ここで、何でもないと貫き通せば麻衣はそこまで追求してこないだろうが、麻衣に相談するのも悪くないか。


「……なるほどね。何となくだけど、妹さんの気持ち分かるかな」
「まじか?」
 電話の時の状況をかいつまんで話しただけなのに、麻衣には何か感じるところがあったようだ。
「ねぇ雄真。最近妹さんに会ってる? 電話とかしてあげてた?」
「最近の状況は麻衣だってよく知ってるだろ?」
 まぁ要するに、忙しくてまともに家には帰ってないし、電話もしていない。
 でも、それは寮に入るって決まった時から分かってた事で、すももも十分理解しているはずだ。
「理屈はそうなんだけどね。でも、今までずっとそばにいた人が急にいなくなったら寂しいんだよ」
 麻衣の言葉には、説得力と言うかやけに実感がこもっていた。
「……それが大切な――好きな人であればあるほど尚更ね」
 それから麻衣の女の子の気持ちがどうこうといった講義を1時間以上聞かされる羽目になった。
 でも、確かに編入する以前――瑞穂坂の魔法科に入ってからはすももと兄妹としての時間を過ごす時間は短くなったような気がする。
 勿論、家族だから一緒に食事を取るとか、家事をしたりとかそう言うのはあったけど、中学以前のように2人っきりでどこかに出かけたりといった時間は殆どなかった。
 その時間がすももに寂しさを感じさせてしまったんだろうか。
 ……そうだな、来週なんて言わずに早めに家に帰ろう。
 やるべき事を投げ出すわけにはいけないけど、出来るだけ早く片付けてすももとどこかに出かけよう。
 その時は、いろんな話をしてやって、いろんな話を聞いてやろう。
 そうと決まれば、まずは目の前の課題を全力で片づけることからだ。
「麻衣」
「何?」
「4日……いや3日で終わらせるぞ」
「はい?? ……ちょ、ちょっと待って。ああは言ったけど3日で終わるわけ……」
「やればできる」
 俺は有無も言わさず、課題に取りかかった。
 そんな俺に麻衣は呆れていたけど、その表情には温かさがあった。




「はぁ……何であんなこと言っちゃんだろう……」
 兄さんの電話があってから3日。私はあの時の自分の対応に後悔していた。
 あんな事言うつもりじゃなかったのに……
 兄さんが忙しいのは分かってた。ただ、家に帰ってくるのが1週間遅くなっただけ。
 なんて事はない。私が1週間我慢すればいいだけの話。それなのに、私はそのたった1週間すら我慢できなかった。
 ……違う。そんなんじゃない。
 私が我慢できなかったのは、電話越しに女の人の声が聞こえてきたから。
 私より大切な女性(ひと)がいる。  そう思った瞬間我慢が出来なくなった。
 クラスメイトの人と一緒に課題をやっていただけ。魔法使いには女の人が多いから、当然クラスメイトも女の人が大半を占めている。しかも、予定が遅くなるほどの課題が出ている。
 だから、一緒に勉強をしている人がいても全然不思議じゃない。たとえそれが女の人であっても。
 冷静に考えれば、勉強を頑張ってと励ます事はあっても、2度と帰ってくるなと罵倒を浴びせるのはお門違いもいいところだろう。
「……兄さん、もう帰ってきてくれないのかな」
 自分から帰ってくるなと言っておいて、身勝手なのも甚だしい。
「はぁ……」
 このまま部屋に閉じこもってたら気が滅入ってしまいそう……
 特に目的もないけど、適当に街をぶらつこう……私はそう思って外出用の服に着替えて玄関へと向かった。
 玄関でちょうど靴を履き終えた瞬間に、呼び鈴が鳴り響いた。
「(新聞屋さんか宅急便かな……)」
 私は特に深く考えずに玄関のドアを開いた。
  「兄……さん……?」
 玄関を開けた先に立っていたのは、今一番会いたかった人で、一番会いたくない人だった。
「おう、ただいま」
 兄さんが家にいた時には毎日のように聞いていた挨拶。でも今はとても懐かしい挨拶。
 兄さんは私があんなひどい事を言ったのに、それを怒っている様子も見せず本当に普段通りに帰宅のあいさつをしてきた。
 その事が嬉しいはずなのに、あんな事を言ってしまった手前、逆に居心地が悪かった。
「すもも、今日丸一日何か予定あるか?」
「……いえ、特にないですけど」
「よし、それじゃ出かけよう」
「え? で、出かけるって何処に……」
「計画はない。でも、ブラブラしながら考えるのも悪くないだろ?」
 兄さんは笑いながら、右手を差し出した。  ニッと笑う兄さんの顔は、私たちが兄妹として毎日一緒に遊んでいた頃のそれと全く変わっていなかった。
 その顔を見たら、今まで考えていた後ろめたい気持ちが一気になくなって、兄さんの右手に私の左手をしっかり重ねた。




 その後は、兄さんの言葉通り何の計画もなく街をブラブラと散策した。
 途中、ランチしたりアイスクリームを食べたり、商店街の福引で水族館の招待券が当たったからその足で水族館にも行った。
 夏休みで、家族連れのお客さんがあふれかえっていたけど、久しぶりに言った水族館はとても楽しくて、私は子供みたいに兄さんを引っぱりまわした。
 兄さんもそんな私に嫌な顔一つせず、一緒に楽しんでくれているのが分かったからそれが楽しさに拍車をかけた。
 水族館を出た後は、ショッピングをしたりゲームセンターでプリクラを撮ったりしていたら、あっという間に時間は過ぎて、いつの間にか太陽が水平線の向こうに隠れてしまう時間になっていた。
 そろそろ家に帰ろうと言う話になって、帰路に着いた途端、私は都合のよすぎる自分の姿に若干自己嫌悪に陥っていた。
 あんなひどい事を言っておきながら、兄さんと一緒にいられると分かっただけでその事を無かったことにして楽しむだけ楽しんだ……
 兄さんはきっと気にしないでいいと言ってくれる。
 兄さんはやさしいから……そんな優しい兄さんが好きになったんだから……
 私はいつもその優しさに甘えていた。
 1人の女性として見て欲しいと思いながらも、“妹”に対して向けられた兄さんの甘美な優しさを手に入れる為、私は“妹”として甘えていた。
 だから、私はまだ大切な一言を兄さんに言っていない。
『ごめんなさい』
 まだ、この一言を言えていない。
 よくよく考えたら、兄さんは1週間後に帰ると言っていたのに、3日しか経っていない今日帰ってきたと言う事は、無理にでも用事を済ませたか先延ばしにしたかのどちらか。
 結局、私の我がままで兄さんに迷惑をかけてしまっている。
 その事を謝らないと……
「すもも」
「はい?」
「何だ……その、悪かったな」
「え?」
「いや、最近すももの事にかまってやれなくて……」
 兄さんは本当に申し訳なさそうな表情をして私に謝ってくれた。
 本当は私が謝らなくちゃいけないのに……
「に、兄さんは悪くないです! 私が……我がまま言っちゃっただけで……」
 そこまで言って涙があふれてきた。
 辛いとか悲しいとかじゃなくて、いつまで経っても兄離れ出来ない私自身が不甲斐なかったから……
「それじゃあ、俺の事許してくれるか?」
 頭を優しく撫でてくれる感覚を感じながら、私は何度も何度も頷いた。
「ありがと……それじゃあ仲直りの印に……」
 私が顔を上げると兄さんの手にはねっくれるが握られていた。
「まぁ、中の石は模造品で安物だけどな」
 兄さんは私の背中側に回り込むと手早くペンダントをかけて……くれなかった。
「あれ? ……くそ、何で引っかからないんだこれ」
 ネックレスに悪戦苦闘している兄さんの顔を思い浮かべると、思わず吹き出して笑ってしまった。
「あはは……兄さん、自分でつけますから貸してください」
「そうか……」
 兄さんはちょっとガッカリした表情をしていたけど、兄さんがくれたペンダントを早く身に付けたかったから。
 手間取っていた兄さんとは違い、手際よくペンダントをつけて、そのペンダントの感触をじっくりと味わった。
「うん、買った俺が言うのも何だけど、似合ってるぞすもも」
「ありがとうございます」
 似合ってる。
 その一言が、飛び跳ねたくなるくらいうれしかった。
「一応、その中心の石はダイヤを模したもので、その土台は……そう、リナリアの花だったかな」
 ペンダントについて説明してくれた兄さんの言葉を聞いた時、私の心臓は静かに、それでいてはっきりと跳ね上がった。
「さて、あまり遅くなったらかーさんが心配するから帰るか」
 出かける時と同じように差し出された兄さんの右手を、出かけるときには感じていなかった甘く締め付けられるような胸の痛みを感じながら、私は左手をしっかりと絡めた。
 きっと兄さんは気づいていない。
 ダイアモンドとリナリアの花の持つ意味を……
 でも、このペンダントが私に少しだけ勇気をくれた。
 “妹”から1人の“女の子”へと踏み出す勇気を……
 ダイアモンドは【永遠の絆】、リナリアは【私の心を知って欲しい】と言う意味を込められた石と花。
 だから、勇気を出して私の気持ちを伝えよう。
 私の本当に気持ちを……
 永遠に兄さんと一緒にいたいと言うこの気持ちを……


...To be continued




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